人生で初めて出会ったフリーランサー金森さんのお話

その日、私は空港の片隅で時間を持て余していた。

海外旅行にはパスポートとクレジットカードさえあれば事足りる信じていたけれど、どうやら違ったようだ。

手荷物審査を終えたあとの搭乗口付近には、小さなカフェが一つだけ。すっからかんの物寂しい棚には、蛍光灯に照らされたカッピカピのサンドイッチが3つ。冷却装置のブーンという機械音だけが、悲しく響き渡っている。

ペットボトル水を買いたかったのだが、カウンターのおっちゃんに「キャッシュオンリー」とぶっきらぼうに断られたばかりだった。キャッシュ、現金、つまり「リエル」が必要だという。陸路で移動していた私の手元には「バーツ」しか残っていなかった。ダメ元で使えないか聞いてみたけど、無言のしかめっ面で首を横に振られてしまった。東京から北海道に行くより短い移動距離であっても、決められた境を一歩でも踏み越えてしまえば使える通貨が変わってしまうんだ。ちぇっ。

飛行機の搭乗時間まで約2時間。

鉄製のベンチが均等に並んだ搭乗口には誰もいない。人類絶滅の日に居合わせてしまった気分だった。天井の杭には、どこから迷い込んで来たのか薄汚い鳩が一羽止まっている。生きてるのか死んでるのかすら、わからない。その子を照らす電球の薄暗さも気味が悪い。

喉がカラカラに乾いていたけど、お手洗いの水道水を飲むのは気が引けた。フライト中の下痢は避けたい。

仕方ない。Kindleでも読んで過ごすか。

そう諦めた時だった。

日本人?

日本語だった。反射的に顔を上げる。

目の前に「日本人?」とこっちが問いたいくらい彫りの深い顔があった。日に焼けてカブトムシみたいに黒光りしている。奇妙な笑みを浮かべて、こちらを見下ろしていた。30歳前後だろうか。

第一印象は一言で「チャライ」。七分袖のカットソーにロングジーパンと運動靴姿の私とは対照的に、白い短パンに水色のアロハシャツを纏っていて、足元はビーチサンダルだった。チリチリの黒髪を顎下まで伸ばして、同じく漆黒のアゴ髭を生やしている。信仰してるんだか何だか知らないが、胸元には十字架のペンダントまでぶら下げていた。極めつけに、室内にもかかわらず麦わら帽子をかぶっている。なんだこの人。

そうか、ナンパだ。

途端にめくるめく不信感。私は得体の知れないこの男性を無視しにかかった。そうだ、日本語がわからなかったふりをしよう。Kindleの画面に目を戻す。そしてハッと気がついた。文字が縦書きだ。これじゃ日本人だってバレバレだ!

私の心情を察したのか、その男性は潔く目の前から去っていった。

ふー、やれやれ。

ケータイのKindle画面に目を戻す。友達が勧めてくれた、山田詠美さんの 『ぼくは勉強ができない』だ。私はいつも、旅と並行して本を読む。

再び訪れる静寂。

5%……10%……15%。順調にページを送っていた。

だがしかし。

しばらくして、何となく変な予感がしたので顔を上げた。廊下の向こう側に人影がある。

なんと先程の男性がノコノコと歩いてくるではないか!

げっ!何だ、こっちに向かってるのか?来るな、来るな、来るな…!

そう念じていたのに、願い届かず。

その男は何の躊躇もなく、あっさりと目の前にやって来た。手には、2本のペットボトル水を握っている。それから右手の1本を、私の顔の前に突き出した。

ハイ。現金がないと、買えなかったっしょ?

……はぃ?

彼の右手首に巻かれた、銀色のドクロが揺れるブレスレットが目に入った。

空港を名乗ってはいるけれど、カンボジアの国内線乗り場では一切クレジットカードが通用しないようだった。

時刻は夕方16時。シェムリアップから首都クアラルンプールまで水なしで耐えるつもりだったけど、この期に及んで無視を突き通したら流石に申し訳ない。

混乱したまま小声で礼を言い、ペットボトル水を受け取った。その男性は満足気に頷くと、向かい側の鉄筋ベンチに腰掛けた。

ちなみにこの時の私の目的はアンコールワット遺跡……ではなくて、そこから約1時間ほどバスに揺られたKampong(カンポン)という農村地帯を訪ねることだった。大学時代の友人が、国際NGO職員として有機農業に携わっていたので、大学最後の春休みを利用して会いに行ったんだ。

そんな農村地からの帰り出会った、海男のようなその人は、案の定「サーファー」だと名乗った。

わざわざアンコールワット目当てにシェムリアップに来たとは思えない。聞けば彼の友人がこの町に住んでおり、日本へのフライトついでに寄ったという。これからカンボジア国内移動予定の私とは、行き先が異なる。

ついでに、彼の職業は「フリーランス・サーファー」だと告げられた。

サーフィンは趣味でなさっているのかと思いましたという私の率直な感想に、へへっと笑って鼻の下を掻いた。

仕事…してるんだよなぁ、こんなんでも一応、ねぇ?

そうは見えないでしょうと言いたげに語尾があがる。

大学生にしちゃ無理があるけれど、確かに自由に生きている感じはあるな。

私は答える代わりに質問を重ねた。

サーフィンは、教えているということですか?

彼は「一応、ね」と繰り返した。

今度の語尾は下がっていた。そうなんだ。

バリ島にいるんだよ、シーズンの時は。観光客に教えてんの。行ったことある?バリ。インドネシアの、あーそうそう。イイよね〜波が。日本だとさ、イイ波がないからさ、やっぱ海外の方がイイんだよね。気候もイイしさ。

とりあえずバリ島は彼にとって全てが「イイ」所なんだな。

日本もイイところだよ。ヨメさんとムスコがいるからさ。今後5歳なんだけどさ、知ってる七五三って?なんかアレ神社行くんでしょ?ヤベーよ、絶対カワイイと思うよウチのムスコの着物姿!あ、写真あるけど見る?

もう彼のマシンガントークは止まらない。

学生時代に知り合った奥さんとは、卒業した年に結婚したらしい。日本では千葉に住所があるという。彼は聞けば聞くほど親バカだった。自慢気に見せてくれたケータイの待ち受けには、ピースサインを向けたムスコの無垢な笑顔がいっぱいに映っていた。いつだって「心から愛し守っている者」がある人は強かだ。こんな見た目でもちゃんと「父親」してるんだなぁ。第一印象で偏見を持ってしまった自分を恥じた。

それからしばらく、ムスコ写真のお披露目会が続いた。彼が小学校に入学したら、バリ島だけでなく東南アジア全域に活動拠点を広げたいらしい。サーフィン・シーズンでないときは、タイやフィリピンで行なっている友人の貿易業務も手伝っていると明かしてくれた。

千葉では働かないんですか。

千葉は辛ぇよ、イイ波ねぇもん。

そう愚痴った後に「でもヨメさんがホラ、動きたがらないからさ」と誰かに聞かれるのを拒んでいるかのように小さく早く囁いた。サーフィンだけじゃ養えねぇよ、とも。ヨメさん側の両親は他界しており頼れる親戚はいない。自分の親もハナから頼る気はないが「死んだ」という。

この人は家族を養うために、自分も死ぬまで波に乗り続ける気なのだろうか。

あのさ、鏡文字って知ってる?

思い立ったように彼が尋ねた。唐突に話題を変えるのが得意なようだ。

写真を見せるために私に向けてくれていたAndroidをヒュッと180度反転させて、アロハシャツのポッケに放り込んだ。

鏡文字ですか?はい。

俺さ、名前「カナモリ」って言うんだよ。ゴールドの「金」に、自然の「森」で「金森」ね。他は何だ…「林さん」とか。

「田中さん」とか「山本さん」もですね。

そーそー。「金高さん」とかもさ。韓国だと、そういう左右対称の鏡文字は「縁起がイイ」って言われてんだ。そこだけかなー、オヤジに感謝してんのは。

オヤジ。鏡文字。韓国。なんとなくだけど、この人、金森さんの両親は「死んだ」のではない気がした。きっと彼が心の中で「殺した」ままなのだろう。

「他にはなんかあるかね?鏡文字」と言って無邪気に笑う彼の横顔に、西日が差し掛かって美しい陰影を作った。私は彼の顔色を伺いながら言った。

「日本」も、左右対称ですね。

金森さんの家族が待っている日本。

彼は目を細めると、ハハハっと爽快に笑った。そして一瞬だけ真顔に戻った後、ニヒッと歯を剥き出して笑い、フレミングの法則みたいな中途半端な形の手を突き出して「イイね」と一言発した。

まぁ人生、波乗りみたいなもんでさ。

ビックウェーブ目指して泳ぎ続けるんだよ。

辛いかもしんねぇけど、途中で転倒しても諦めずにさ。

そいつを乗り越えてデカイ波の頂点に立った時、きっと全てが報われるんだぜ。

ガンバレよ。

同じ笑顔のままそう宙に語りかけると、彼は「トイレに行ってくる」と言って席を立った。

彼を待っている間、私は貰ったままだったペットボトルを開け、少しだけ水を飲んだ。

その後、彼が戻って来ることはなかった。

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