
英語の「land」を和訳せよと言われたら、何と訳すだろう。
「土地」「陸地」「陸」?
私の頭で思いつくのは、せいぜいこのくらい。
しかし。かつて、この単語を「国」と訳した人たちがいた。幕末の船乗りたちだ。
飛行機なんて便利なものはなく、海外へと出向く唯一の手段が命がけの航海であった時代。海を隔てた遙か遠くに見える「土地(land)」は、船内から覗く彼らにとっては「国」そのものだったからだ。
私はこの話を大学の教授から聞いた時、なんてロマンに溢れた訳なんだ!と感動を覚えた。
そして彼らのような漂流民の中に、シンガポールまで流れ着き、結局最後まで祖国に帰れることのなかった日本人がいたということも知らされた。
その名も「音吉」(1818–1867年)。又は「オトソン」という。

見習い船員として乗っていた船が難破
→ 通訳者・商社マンとして世界一周
→ 祖国に帰ろうと試みるも「鎖国」によってその願いは叶わず
→ 最後はシンガポールで骨を埋めた
という波乱万丈の人生の持ち主だ。
漂流民でお馴染みのジョン万次郎よりも先に、アメリカやイギリスに上陸している国際人でもあるらしい!

シンガポールの商社で働いていたんだよ。

現地採用の第1号だね!
今で言う愛知県美浜町の出身の彼。
その人生をザッとかいつまむとこんな感じ。
15歳 | 見習い船員として乗った商船が静岡付近で嵐に遭遇。 黒潮に乗って約1年半も太平洋を流され、北米ワシントン州のインディアン居住区に漂着。 奴隷として使われる。 |
19歳 | イギリスの商社に雇われ、ロンドン経由でマカオに到着。 日本のキリシタン禁制時に世界初の日本語訳聖書の編纂に協力。 |
20歳 | マカオ発の米船モリソン号で5年ぶりに日本帰国を図る。 しかし幕府の「来るもの全員ぶっ潰す!」(筆者超訳)という外交政策「異国船打払い令」により、祖国から大砲を向けられ退散。 |
25〜26歳 | アヘン戦争後の上海にて通訳・商社マンとして6年間働く。 自分と同じ境遇にあった日本の漂流民の援助活動にも従事。 |
27歳 | 上海にてイギリス人女性と結婚し娘が生まれる。(しかし程なくして妻子ともに他界) |
? | マレー系女性と再婚。 |
44歳 | シンガポールに移り、貿易業で生計を立てる。 日本人のシンガポール定住者第1号となる。 |
46歳 | 日本人として初めてイギリスに帰化し、「ジョン・マシュー・オトソン」と名乗る。 |
49歳 | 台湾にて他界。 |
皮肉にも、日本ではこの翌年が明治維新だった。

20歳で、5年ぶりに目前にした祖国から砲撃されたことによる無念さは、どのようなものだったんだろう。
断腸の思いでマカオに引き返したに違いない。
あまりスポットライトが当たることのない歴史上の人物だけれど、こんな波乱に満ちたストーリーを読んでしまったら、音吉さんに会いたくなってきたでしょう?!(ならない)
音吉の眠るシンガポール日本人墓地公園
そんな音吉に会えるのが、シンガポールの閑静な住宅街にある日本人墓地公園だ。戦前に活躍した日本人や戦犯処刑者も含め、この地で亡くなった日本人と共に眠っている。
1891年に誕生し、現在はシンガポール日本人会の管轄下になっている。
管理されている墓標の数は、なんと約1,000基にも登るという。



墓地とは思えないくらい綺麗!

日本みたいだねぇ〜
そう、この日本人墓地公園は一面にブーゲンビリヤとプルメリアが咲き誇っていて、墓石を除けば、ボタニックガーデンと勘違いしそうになってしまう。

音吉と共に眠る「からゆきさん(唐行きさん)」
と、いうより「からゆきさんと共に眠る音吉」と言った方が正確かも?
そもそもこの墓地が建てられることとなった背景には、「からゆきさん」たちの存在がとても大きく関わっている。
彼らの中には、過酷な労働状況の中、日本に帰ることができずシンガポールで生涯を終える人も少なくなかったという。そして亡骸は当時、無残にも牛馬の棄骨場に捨て去られていたらしい。
そんな彼らを、きちんと供養してあげようと建てられたのがこの墓地公園だった。

芝生の上に高さ30cmほどの小さな墓石が点在しており、どれも、日本の方角である北に頭が向けられている。
そしてお待ちかね(?)の音吉さん!

あ〜やっと会えたという感じがした。
こちらに遺灰が収められており、写真右後ろにチラっと写り込んでいるのが納骨堂。
墓石に描かれた舵輪は、彼の航海人生を物語ったものだろうか。
現在、彼の遺灰はシンガポールの日本人墓地公園納骨堂含めて3つの異なる場所に納められているらしい。
ちなみに音吉と2番目の妻であるマレー系女性との間にできた息子ジョンは、音吉が日本で籍を入れてほしいと強く望んだことから、その通り日本で「山本音吉」という父の名を継いだという。
父・音吉の方は、晩年にかけて日本人漂流民を日本へと送り返す救済活動を行っていたそうだから、その気になれば本人が帰国することもできたのだろう。実際に日本帰国のオファーを受けたという記録も残っているみたい。けれど結局、最期まで自ら祖国の地を踏もうとすることはなかった。
路頭に迷って本当に救済が必要な時に、祖国から入国拒絶をされ続けていた、俺に今更なんの用だ。という音吉の意思の表れなのだろうか。
帰りたくても帰ることのできなかった祖国への再移住を息子に託した音吉。
時代と運命に翻弄された彼の心情はどのようなものだったのだろうか、思いを馳せずにはいられない。