
やんわりとした白い光に包まれながら、私は病院の担架に横たわっていた。
ここは、手術室。
逆流性食道炎(=reflux esophagitis)と胃カメラ(=gastroscope)っていう、ついさっき覚えたばかりの英単語を脳内リピートする。海外生活も合計3年になるのに、いまだに医療関係の英語力が乏しすぎて泣ける。
顔の半分をマスクで覆った、素性の知れない男性がニュッと現れた。
Don’t worry. Just relax. You won’t remember anything anyway.
どうせ後で何にも覚えちゃいないんだから平気だよ、って。縁の薄いメガネ奥で、利発そうに光る2つの黒目。私を見下ろしているマスク顔の口元が微動する。
頭上の巨大パネルには、カルテ情報が映し出されていた。
私の名前。
私の体重。
私の血圧。
シンガポールの医療技術ってすごいな。そんなことを考えていると、今度は白衣の女性が視界に入ってきた。マスクをしているので表情は伺えない。透明のチューブを、少々乱雑に私の鼻腔に押し込んだ。うげっ!
酸素濃度の高い気体が一気に流れ込んでくる。
左向きに横たわるよう促され、その指示に従った。
私の意識は、そこで暗闇に引きずり込まれた。
逆流性食道炎の疑い
特に何もしていないのにお腹が張って苦しい。
たまに、甘苦い胃液が食道を伝って上がってくる。
こういうことって、ありませんか?小さい頃から胃下垂持ちの私は、頻繁にこうした症状に悩まされている。ただ最近はなんだか頻度が上がってきている気がして。身内に逆流性食道炎の人が多いから、遺伝するものなのかな?
とにかく何か大事があってからでは遅いので、もう半年以上も前の事になるけれど、念のためシンガポールの病院に足を運んだ。
シンガポールにはラッフルズジャパニーズクリニック、日本プレミアムクリニック、ジャパングリーンクリニック、日本メディカルケアなど日本人医師の診察を受けられる病院がいくつもある。
私がお世話になったのは、感染症・循環器内科を専門とされるお医者さん。
シンガポールでは初診から専門医にかかる事は稀で、一般総合医の診察を受けた後、追加手当てが必要であれば専門医を紹介されるというフローが一般的みたい。
症状を伝えたところ、まずは胃カメラで様子を見ましょうということになった。
シンガポールの診察事情
- 前日の夕方から飲食禁止
- 当日の朝は水もダメ
- 汚れてもいい服で来院して
などの指示を受け、当日は朝から指定された内視鏡検査センター(Endoscopy Center)へ。
まず驚いたのは、患者さんの多様さだ。
シンガポールでは病院施設内の色んなメディカルセンターが、同じ内視鏡検査センターを共有しているらしい。各医院から内視鏡検査に訪れた、約20名ほどの患者がロビーにたむろしていた。ざっと見渡した感じ、中華系が6割、マレー系が2割、インド系が2割ほど。日本人は私だけ。ほぼ全員無言で携帯をいじっているか、ソファーにもたれ掛かったまま、うつらうつらと浅い眠りについている。
受付カウンターのお姉さんに話しかけると、入り口の機械で番号札をゲットするように諭された。
灰色の小さな箱。まさに、銀行の窓口にあるアレ。
画面に浮かんだ「カプセル内視鏡検査」「気管支鏡検査」「大腸内視鏡検査」といったキーワードの中から、「胃腸内視鏡検査」をポチる。
ジジジジ…という音と共に、診断番号の印刷された紙切れが発行された。
「早い・痛くない・記憶ない」シンガポールの胃カメラ診断
待つこと10分。
壁にかかったスクリーン上で、私の手にした番号が点滅した。本当に銀行みたいだな。Leeさんと名乗る女性スタッフがやってきて、白濁色のスライド式ドアの向こうに案内された。
静寂は一転、扉の向こうは何やら騒がしかった。何人もの白衣を着た人々が、忙しく歩き回っている。スタッフも白衣、患者も白衣だった。途中、点滴をぶら下げて手術着に身を包んだ中年男性が、天井を仰ぎながら車椅子でどこかに運ばれていった。なんだこれ、カオス。
シンガポールの病院は、病院らしい匂いがしない。イヤホンで音楽を聴いて目さえつぶっていれば、図書館の一角と勘違いするかもしれない。病院の無機質で冷たいイメージを覆すような、木目調のフローリング。「ご自由にどうぞ」という札の添えられた棚には、クッキーやコーヒーマシーンが置いてあった。その横に、手乗りサイズのパンダの人形がちょこんと腰掛けている。通院している患者が利用するのか怪しいコーナーだったけど、とにかくアットホームな空間であることは間違いない。
ごめんなさいねー待たせちゃってー!
担当のLeeさんが小走りでやってきた。廊下のオープンスペースで身長・体重・血圧など簡単な健康診断が行われ、青緑色の患者着を手渡された。
上半身は下着も全て脱衣とのこと。「当日は汚れてもいい服で」と言われてきたのだけれど、関係なかったのか。。。白衣を着た女性が矢継ぎ早に複数の質問を投げかける。
今まで点滴でアレルギー反応が出たことありますか?
いえ、特にないです。
胃カメラで、副作用が出たことありますか?
それもないです。
わかりました。じゃ、右手を出してください。
ハイ。
内視鏡検査センターのスタッフさんの対応は、非常に素早く慣れっこだ。
そして。

…プスッ。
右手の甲に、SFの攻撃機みたいなのがブッ刺された。
触っちゃダメですよ!5分くらい、そのままにしておいて下さいね。
ハイ、わかりました。
麻酔ですか?と聞くと、「セデーション」だと説明された。また知らない単語キターw
あとで調べたら「静脈鎮静剤」だった。意識を消失しない程度に中枢神経系の働きを抑制するらしい。自然に眠っているようなリラックス状態に陥ることができるとか。
感激したのもつかの間、すぐさまストレッチャーがやってきて、その上に寝かせられる。怖いよ。
怪訝そうな私の表情に気が付いた白衣の女性から、胃カメラ検査をなんと「手術室」で行うと説明がなされた。
ガラガラと運ばれていった部屋には、顔の半分をマスクで覆った男性医師が待ち受けていた。白衣の女性はストレッチャーを固定すると視界から消えていった。男性医師が自らのフルネームを名乗り、こう続けた。
Don’t worry. Just relax. You won’t remember anything anyway.
どうせ後で何にも覚えちゃいないんだから平気だよ、と。
え、記憶なくすのか?むしろ胃カメラよりそっちが怖い…!汗
ここから先は早かった。
鼻腔に酸素チューブが取り付けられる。
ほぼ同時に、喉奥に麻酔薬を吹き付けられる。飲み込むまでもなく、グラス1杯のウォッカを直接喉に流し込んだような麻痺状態になった。声が出ない。
次に、胃カメラの通り道を広げるため左向きに横たわるよう促される。
血液内の酸素量を判断するため、手は外に出しておいてほしいと言われる。
やんわりとした白い光に包まれる。
私の記憶はここでおしまい。

次に目覚めた時は4時間が経過していた。
見覚えのない部屋で、左腕に血圧測定器を巻かれた状態で横たわっていた。
朦朧とした意識のモヤが徐々に晴れていく。血圧に問題なしと判断されたところで、胃カメラ検査は終了。
ちなみに胃カメラ検査の結果は「逆流性食道炎」ではなく「胃炎」で小さなポリープ切除も伴ったので、医療費は処方薬を除いても$1,000弱もかかってしまった。
それにしても日本で胃カメラをする時に、わざわざ全身眠らされることなんてあるのだろうか。
モニターで自分の胃の中の映像を見せられつつ「オエエエェェエ」と嘔吐反射が出てしまうのだが、なんせシンガポールの内視鏡検査は「早い・痛くない・記憶ない」。良いな、これ。高いのが難点だけど。
出産時も「無痛分娩」という話をよく聞くけれど、命の誕生もこんな感じであっさりと終わるのだろうか。シンガポールの今後の医療事情に注目していこう。
