シンガポールの地下鉄MRTが暴走した時の乗客の神対応

シンガポールの国民の足である、電車・地下鉄(MRT)。

よく晴れた日曜日、私はシンガポール初の世界遺産であるボタニック・ガーデン(Botanic Garden)の最寄り駅から、最近路線が拡張された青線(Downtown Line)に乗車した。

海外あるあるかもしれないけど「電車内で喋ってはいけません」という不文律が存在しないためか、シンガポールの電車内は絶えず人々の話し声に満ちている。家族も友人もカップルも、それぞれの言語で会話に花を咲かせている。週末は、心なしか親子連れが多い。メイドさんも。週に1度のお休みに、オーチャードのど真ん中にあるフィリピン人の聖地「Luck Plaza」へ向かっているらしい。

日本語と英語しか理解できない私にとって、MRT内は外国語の飛び交う「即席語学学校」のようで面白い。

さて、今日の行き先は3駅先のインド人街、Little Indiaだ。

今いる駅から、3つ先の駅。

Botanic Garden ▶▶▶ Little India

シンガポールの電車内は見た目の「異文化パラダイス」も炸裂している。皺々の右手首に金のブレスレットを纏った白髪のインド系おばちゃんの隣には、座席の上で両足を宙に浮かせ、自分の上半身よりも大きなiPadでアニメ動画に釘付けになっている中華系の幼稚園児。その奥には、ケータイを横に倒して韓国ドラマを観ながら友だちからのwhatsupp対応までこなす大学生。

ボテニック・ガーデンの次の駅、Stevensでインド人家族4人組と、欧米人バックパッカーが1人乗車してきた。

それから数分後。

車内アナウンスが目的地を告げる。

しゃおいんどぅー。The next station is Little India.

着いた、着いた。

減速し始めた車窓の向こう側に、LEDライトに照らされたプラットホームが飛び込んでくる。全自動運転のMRTでは車掌室がなく、メーターなんかを眺めながら「車掌さんごっこ」することはできないけど、これはこれで迫力がある。走馬灯のように過ぎ行くホームドアの羅列を目でなぞりながら、定位置での停止を待った。

しかーし。

無人運転に定評があるMRTにも、その日の「ご機嫌」というものがある。

停止後なかなか開かぬドアに目をやると、車両ドアとホームドアの位置がずれまくっていた。どうやら停止位置をミスったらしい。

電車はそのまま、位置調整のためにのろのろと後ずさりを始めた。2組の透明な板がぴったりと向かい合ったところで、再び停止。シンガポールで暮らしていれば、こうした自動運転トラブルはよくあることだから焦る必要はない。さて、気を取り直して降りましょう。

ここでも、しかーし。

安堵したのもつかの間だった。

車両はドアが閉まったまま、再び発進し始めてしまった!

リトルインディア駅、完全無視(・_・;

皆さま先ほどの停止位置ミスは忘れてくださいと言わんばかりに加速し始めた。

焦る乗客。うごめく車内。

降車準備の空回った人々が明らかな手持ち無沙汰に陥る。

事情説明のアナウンスが流れる雰囲気は微塵もない。

Little India ▶︎ Rochor

何事もなかったかのように、次の駅名が告げられた。ああもう一体なんなんだ。

電車が停車駅をすっ飛ばすハプニングに対する乗車客の神対応

数分ごとにやってくるMRTは世界基準でみれば恐ろしく「正確で、迅速で、快適」だ。ただ困ったことに、故障が多い。そして人間の手を離れて自動化されてしまった交通機関は、プログラム化されていないトラブル対処にめっぽう弱い。

リトルインディア駅をなきものとして通り過ぎてしまった列車。特にお尻の時間が決まっているわけでもなかったけれど、やっぱり少し焦った。

結局電車は軌道修正することができず、リトルインディアの次の駅、Rochorでも規定のセクションエリアを超えてから停止した。暫くの沈黙の後、先ほどのデジャブのように後ずさる。今度は何事もなく、車両ドアが開いた。

あぁ、よかった。

と、思ったんだけど。

今度はホームドアが開かなかった。おいおい。

ホームは目の前にあるのに、身動きできない。怪訝な面持ちの乗客たちの焦りと苛立ちが伝染する。駅名を暗唱できるほど乗り慣れてる区間であるにもかかわらず、私は思わず頭上の路線図を確認した。

Rochor ▶ Bugis ▶▶▶ Expo

“Expo”という、チャンギ空港一歩手前の駅名がチカチカと光っている。おっと。このままだと空港まで強制連行されてしまう。

シンガポールの電車には「急行」や「特急」という概念がない。特定の駅を飛ばしたり、別の電車を追い抜いたりすることなく、どの電車も各駅停車で運行している。インド人街からExpoまで一つ一つ止まっていたら、一体何駅あるんだ?多分1時間は要するだろう。…どうしよう。

ふいに、乳児の乗ったベビーカーを支えた中華系シンガポール人パパと目があった。ぽてっとした一重まぶたが優しい印象の人だ。ポロシャツに黒縁メガネの、いわゆるTHEシンガポール人パパという印象。足元から「ふにゃぁ!」という小さな叫び声が聞こえてきたので見てみると、ベビーカーに乗った赤ちゃんがグズり出している。親はこういうとき焦ってしまうよね。「電車、困りましたね」と声をかけようとしたその時だった。ゴテゴテのシングリッシュで先手を取られた。

Well, we are in Singapore anyway HAHAHAHHA!

どうせシンガポール国内にいることにゃー変わりないんだ!

そういってニカッと笑う。

心を読まれたようだった。

この人、超楽天的じゃないか!

そうだろ?と言わんばかりに彼が視線を投げやった先に立っていた、彼の友人らしきシンガポール人女性もこれにノった。

Let’s go to the airport〜!

空港まで行っちゃおうー!矯正中の上前歯を全開にして微笑んだ。

この2人が乗客の心の氷が溶かすきっかけになったのは言うまでもない。異国での異常事態に混乱していたヨーロッパからの観光客らしき家族は、この異常事態にも冷静さを取り戻し、娘・息子をなだめ始めた。タトゥー眉をV字に吊り上げていた中華系おばあちゃんの表情も優しくなる。まぁいっか。私の心も、軽くなった。

唐突に、乗客いっぱいの車内に充満する「La vie c’est comme ça」モード。

Life is like that. 人生こんなもんさ。

騒いだって解決しようもないんだから、しゃーない!

死にゃーしないんだし、おっけーらー!

ビクともしないホームドアに対する不満がぬぐい去られ、乗客全体に生まれる団結感。

ドアが無事に開かれたのは、その直後だった。

おお〜。

乗客から歓声があがった。まるで皆んなが古くからの友人だったかのように、各々が前後左右に微笑み合う。

Have a nice day!という掛け声とともに、去る者は去り、残る者は残った。

人は予期せぬ問題に直面した時に本性を表す。そうした時、精神的・時間的に余裕があれば心に波風を立てずに対応できるのだろう。今回のトラブルが起きたのは、日曜日の午後。人々が大勢行き交う都心部を走る電車内でのことだ。1日の予定を抱えた、国籍も文化も言語も異なる赤の他人同士が集まったあの場所で、誰一人不満や嘆きを漏らすことなく、危機的状況が共通の楽しみに変わった瞬間。

シンガポールで暮らす人々の「余裕」に感謝したひとときだった。

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました