
9時の始業時間前。会社に着いてメールを開くと、シンガポール時間の午前2時から明け方にかけて、ボチボチとメールが入っている。そのうち半分は、アメリカ合衆国の、ワシントンD.C.からだ。
長いメール本文の最後に、大文字が3つ。
TQ, J
入社して2週間くらい経ってから知った、John(仮名)とかいう超モンスタークライアントからの連絡で、”Thank you. Best, regards, John”を省略、いや、圧縮した彼なりのサインなんだけど。
何故だろう、これを見ると俄然モチベーション下がるんだよな。
新婚ホヤホヤの31歳らしいんだけど、奥さんとのハネムーン中も24時間メールが返ってくると社内では一躍有名になっていた。だって休日でもワシントン時間の午前2時に一瞬途絶えるメールが、早朝4時とかには再開されているんだよ?ドッペルゲンガーでもしてんじゃないか。もしくはbot。
シンガポールとワシントンの時差は13時間だ。朝シンガポールで出社する頃には、向こうは夜が更け就業時間はとっくに過ぎている。だからJohnへの報告レポートも後でいいや〜(どうせ他のアメリカ人社員寝てるし)なんて余裕ぶっこきたくなる…んだけど、アラ大変。午後になると、今度はヨーロッパ市場が開いてしまうのだ。
このクソ面倒くさい時差!!
てなわけでアメリカ案件は、午前中に対処しておかなければいけない。というのが元勤め先の不文律だった。
シンガポールで現地採用されたオフィスワークに従事する中で、こうした風潮に戸惑いを隠せなかったことが幾つかある。
入社後オリエンテーションをソコソコに始まるぶっつけ本番OJT
その日は、入社3日目だった。
クライアントへのプロジェクト進捗報告会議の日程が1週間後に迫っていた。私も右も左もわからぬまま配属だけはされていたので、緊張気味に資料に目を通していたら、ふいにデスクの電話が鳴った。
内線「867」。ふむ。二列ほど前に座っている、シンガポール人上司からだ。受話器を取る。
はい、何でしょうか。
応答すると、予想通り35歳過ぎても全く異性の匂いがしない女性上司の乾いた声が流れてきた。
Kotone、報告書って書いたことないわよね?Do you wanna try?やってみる?
トライ。報告書?
今もう?!
エエェ、待ってくれ。
しかも「数日以内に先方へと送る」外部向け資料らしい。その報告メールも、私の名で送れとの指示。(あの時もし英文校閲ツール「Grammary」をインストールしていたら、とんでもなく赤線だらけになっていただろう。)
困った。
初っ端からオリエンテーションもソコソコにぶっつけ本番OJT!の洗礼を受けることとなった。当然最初から100%できるわけなく、完膚なきまでボッコボコにされたしね(遠い目)。
それから必要最低限の新人研修は与えられても、その後の自己研鑽については、あくまでも自己申告制。手取り足取り教えてくれる、お目付け役的なメンターがつくわけでもなかった。
困ったことがあったら、feel free to ask me(ニッコリ)!
わからないことがあったら、do not hesitate to contact me(ニッコリ)!
マジかい。
企業は一人ひとりの社員の「支援者」でしかなく、自分の成長計画は上司とのディスカッション次第で、良くも悪くもどうにでもなったのだ。
同年代間での自分の立ち位置を認識する難しさ
シンガポールには学生全員が足並み揃える明確な就活時期が存在せず、企業によっては採用が年中「不定期・不定量」の場合も稀ではない。
私が新卒入社した米系企業も例外ではなく、2016年4月入社は自分のみ。
そのため同期がおらず、同年代との仕事ぶりを比較できなかったことは戸惑いだった。新しい環境の中で、自分のパフォーマンスを客観視し続けることは想像していたよりも難しい課題だった。
他に比べる対象がない以上、過去の自分を成長を指標にするしかないので。
失敗したことを付箋に書き出して、同じことを注意されなくなったらクリア、とか。自分の入社時にチンプンカンプンだった業務を、後に入社した後輩に自信を持って指導することが出来たらクリア、とか。同じ業務サイクルで、頼りまくっていた和英辞典を検索せずに済むようになったらクリア、とか。
こうした細かな「出来た!」を、1日1日積み上げていった。
当時は地味ぃ〜な一歩だと思っていたけれど、つい先月シンガポール教育省(MOE)が成績表に順位を記載することを全国的に廃止する宣言の中で、「他人」ではなく「過去の自分」との比較の重要さが言及されてちょっと救われたかも。
いかなる学習も、「競争ではなく、個人の成長のためである」という政府の意向。シンガポールはこうしたマインドが企業にも根強い印象を受ける。
業務内容や給料を自ら交渉する気の強さ
日本生まれ日本育ちで世間知らずの新卒ペーペーにとって、もう一つ戸惑いを感じたのは、業務内容や月給を、交渉次第で変えられる余地があるということだ。
大学卒業直前に、シンガポールでいくつか面接を受けた時のことを思い出す。その時に衝撃を受けたのは、この質問だった。
お給料は、いくらをご希望ですか?
はい?
一番最初に面と向かって問われた時は、文字通り固まってしまった。
実際に職業紹介エージェントなどから貰う求人には、給料欄には「SGD4,100〜」とか「SGD2,800〜5,100」とか、とにかく幅広く定まっていない記載が多く見られた。
聞けば固定給が細かく定められている日本とは異なり、シンガポールでは「私は〇〇ができます。なので給料は最低でも〇〇ドル希望です」などと業務内容や給料を自己申告するのが一般的だそうだ。
ちなみにこの交渉は、採用されてからも続く。
ある日いつも通りに出社すると、基本的に開いているはずのディレクターのオフィス扉が閉まっていた。蛍光灯がついているので在室なのは一目瞭然だったんだけど、何だかオフィス全体に落ち着きがない。
「お偉いさんの来客でもあるの?」同僚のミャンマー人に尋ねると、その子はLINEの絵文字みたいに目を回しながら答えてくれた。
なんかお給料のことで、タイヘンなことになってるみたいだよ〜
えぇ、お給料?
しかも戦火を交えているのは、私の上司だという。
どうやらディレクターから依頼された業務内容を、給料に見合わないという理由で断固拒否し、挙げ句の果てにアメリカ本社にまでCCを入れてしまい、メールだけでは収拾がつかず直談判に至ったらしかった。
な、なんて理不尽な!上司に真っ向から牙をむくなんて。
状況を聞いた瞬間はそう思ったんだけど、これもシンガポール人に言わせれば理にかなっているらしい。気に入らないことがあれば、即交渉。納得するまで話し合う。
とは言え「ハッキリNOと言える」ことと、「自我丸出しのおバカ」は紙一重なので難しいことだと思うんだけどなぁ…。それについてはまた今度。
